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2017年のエッセイ 11月
タイ=ミャンマー国境の町メソートを訪ねて
     〜〜Part-2〜〜

4.現地で気づいたこと考えたこと
 最後に、今回メソートを訪問して気がついたこと、課題として考えたことなど
をまとめてみようと思います。それは第1に、タイにおけるミャンマーの移民・
難民問題には歴史があり多様性があり、大変複雑だということです。タイには、
300万人ともいわれるミャンマーからの移民が暮らしています。タイ各地の都市
では、道路工事、建設工事、寺院の清掃などの現場で、ミャンマーからの移民が
働いている光景をよく目にします。数年前には、タイのカニ釣り漁船でミャンマ
ー人労働者が奴隷のように働かされているという状況が報道されたことがありま
した。ミャンマーからの移民には、タイで生まれてタイのIDカードを所持してい
るもの、年間約1万2000円を払ってタイの労働許可カードを持っているもの、滞在
期間と地域が限られている「越境パス」を持って友好橋を渡ってくるものなど様
々です。私がミャンマー側の川岸のレストランで1時間観察して興味深かったこと
は、幅20m程の国境の川をボートで渡って行くミャンマー越境者の入国方法です。
タイ側では3人の兵隊が所持品検査をしていますが、身分証のチェックはなく入国
していました。直接兵隊に質問すると、麻薬や密輸品を見つけることが目的で入
管の仕事はしていない、という応えでした。

 第2に、タイ政府は、移民や難民に寛容であるようにみえますが、現場では厳格
な警備も見受けられたことです。私はチェンマイから定期バスを利用し、7時間
かけてメソートへやってきましたが、途中にチェックポイントがありました。
帰りに同じ経路で戻りましたが、バスターミナルを出発して10分程のところで
警察官がバスに乗り込んできて全員のIDをチェックしました。その後も20分後、
40分後ぐらいにもチェックポイントがあり、私もパスポートの提示を要求されま
した。つまりタイ政府は、国境を超えてくるミャンマー移民に対してはメソート
地区から外に出さない方針を貫いているのです。

 第3に、ミャンマーが民主化し各国の経済制裁が解かれ、世界の関心が同国の
市場に向けられるようになったために、国境を超えてタイへやってくるミャンマ
ー移民への支援が激減していることです。いま世界からの支援が、アウン・サン・
スーチー国家顧問が率いる新政権の発足によりミャンマー国内に集中しているの
です。そのため、メソートには、タイの公立学校へ通えない9000人以上の子ども
たちのための移民学校、学習センターがありますが、いま、存続の危機にあるの
です。2015年7校が閉鎖され、2016年には16校が支援を打ち切られているのです。
メータイ・クリニックでも同様に各国からの支援が減少し、今後の運営に危機感
が募っていると聞きました。これは深刻な問題です。

 第4に、国家顧問と外相を兼務するスーチー氏は、「国の顔」として米国の経済
制裁の全面解除を勝ち取り、日本から多額の経済支援を取り付けることに成功し
ていますが、国内の少数民族や移民・難民問題については、ほとんど指導力を発
揮していないということです。ミャンマーには人口の70%を占めるビルマ族など、
約135の民族が存在します。ミャンマー政府と国軍は、少数民族武装勢力8組織と
停戦協定に署名していますが、他の7組織は署名を拒否していて、いまなお内戦
状態が続いています。そしていま注目されているがイスラム教徒のロヒンギャの
問題です。ロヒンギャはミャンマーのラカイン州北部などに住み、人口は約100万
人と推計されています。ミャンマーの構成少数民族として政府に承認を求めてい
ますが認められず、市民権をもたない「バングラデシュからの不法移民」として
扱われています。2012年にロヒンギャとラカイン族との間で衝突が発生し、船や
陸路でバングラデシュやマレーシアへ出国した人々は難民となりました。UNHCRは
この状況を非難し、国連人権理事会も現地へ調査団を送ることを決めました。
しかしスーチー氏は調査団受け入れを拒否しているのです。

これほど長く海外の支援を受け、この地が世界に知られるようになったのに、
新政権が世界から注目されることにより、善意の活動が続けられなくなるとは
思いもしない皮肉です。ただ長期的に考えると、メソートは単に貧しい移民の
町ではなく、大規模ショッピング・モールも高級外車の販売店も存在します。
この地はベトナム=ラオス=タイ、そしてミャンマーのヤンゴンを結ぶ
「東西経済回廊」の通り道でもあります。経済特区構想もあり、貿易と人流の
ハブになる可能性も十分あるところです。多くの移民がこの地で定住・育成され、
その技術や才能が活かされれば、「移民の町」のモデルとして、世界から注目
を浴びることになるかもしれません。復路のバスの中でそのようなことを考え
ました。
                         佐渡友 哲  

9/10月
   タイ=ミャンマー国境の町メソートを訪ねて
     〜〜Part-1〜〜

1.メソートの移民・難民問題
 今年3月、タイ北西部にあるタイ=ミャンマー(ビルマ)国境の町、メソート
(Mae Sot)を訪ねました。この町は、ミャンマーから陸路でやってくる移民や難
民が最初に定住するところで、ミャンマーの移民・難民問題を世界に知らしめた
女医シンシアさんのクリニックがあることでも有名です。また、日本政府が2008
年に閣議決定した第三国定住難民支援プログラムにより、最初に日本に受け入れ
た難民家族は、この町にあるメラ・難民キャンプからであったことでも知られ
ています。私は以前より、メソートを訪問したいと考えていたので、念願がかな
ったという思いです。想像したより大きな都市でした。

 メソートの人口は約12万人ですが、住民の半数以上はミャンマー人であるとい
われています。大規模ショッピング・モールの食品売り場を覗くと、タイ語とビ
ルマ語、時にはカレン語が表示されています。中心地から西に7qのところに、
タイとミャンマーを隔てるモエイ川が流れていて、そこには大型トラックが行き
来できる鉄筋コンクリート製の友好橋(1997年開通)が架けられています。
この地に押しかけて来るミャンマー人は、タイのすぐ隣り合わせのカレン州から
陸路でやってくるカレン族です。ここで多様なミャンマー人の実態がわかってき
ました。
ここで私は移民・難民問題と説明してきましたが、タイ政府は難民条約に加盟せ
ず、ミャンマー人を難民(refugee)として認めていないので、すべて移民
(migrant)として扱っているようです。

 カレン族はもともと自治意識が強く、1948年のビルマ独立以降、ビルマ連邦政府と
敵対関係が続いていました。カレン族の反政府運動組織であるカレン民族同盟(KNU)
は、同国の反政府武装組織としては最大の規模を誇ります。特に1988年以後の軍事
政権に対する反政府暴動によって多くのカレン族は戦火を逃れ国境を超えてタイに
流入しました。これが世界で報道されるようになった、タイにおける、いわゆるミャ
ンマー(ビルマ)難民問題です。ところが、すでに述べたようにタイ政府は、難民条
約に加盟しておらず、越境してきた避難民を保護する義務はありません。そこでタイ
政府は、国境地域に10数万人いるとされている彼ら/彼女らを一時避難民
(temporarily displaced people)として、人道的観点から滞在場所(難民キャンプ)
を提供しているのです。

2.現地の難民キャンプを外から眺めて
 メソート近郊に通称「難民キャンプ」が3か所あり、そのうち最大規模のメラ難民キャ
ンプを訪問しました。私たち多くの人にとって、難民キャンプというと草原や砂漠の中
にたくさんのテントがある、というイメージですが、ここはまったく違っていました。
道路沿いに数キロにわたり木々に囲まれた、伝統的な「村」という印象でした。道路に
面してフェンスのゲートが3か所あって、それぞれタイの兵隊が構えている。一般に
「キャンプ」と呼ばれているが、ゲートにはMaela Contemporary Shelter Area
(メラ一時避難地域)という正式名が書かれていました。キャンプではなくシェルター
(避難所)なのです。

UNHCRの最新資料によると、メラには、登録住民16,777人、未登録住民20,497人の計
37,274人が生活しています。ここにはNGOスッタフが活動のために出入りできると聞い
ていたので、気軽に入ろうとしたところ兵隊に止められました。1か月前にタイ政府に
申請して許可証を得る必要があると告げられたのです。ここは、タイ政府が場所を提
供し、UNHCRが運営管理にあたり、NGOが医療・公衆衛生、そして学校や図書施設など
を支援しています。外から観察すると、ここには高床式住居のほか、日用品店や学校が
見受けられました。タイ政府はここの定住者を「難民」とは認めていませんが、あい
まいさの中にも保護を与えていることになります。

3.メータオ・クリニックを訪ねて
 ところで、メソート地区の難民問題を世界に知らしめたクリニックがあります。メー
タオ・クリニック(Mae Tao Clinic)です。この地で1989年以来、ミャンマーからの
移民のために無料診療を続けている診療所です。クリニックを創設した女医シンシア・
マウン(Dr. Cynthia Maung)は、ラングーン近郊生まれのカレン族出身者で、大病院
の医師職を辞して、1988年にメソートに亡命しました。彼女は、2002年にアジアのノー
ベル賞といわれているフィリピンの「マグサイサイ賞」を受賞しています。民主化が
進む今のミャンマーでも、診療・検査費、薬剤費など、医療費の大部分は個人負担です。
貧困のために多くの人々が自国の病院で受診できない状況です。そうした移民もこの
クリニックを訪れます。メータオ・クリニックは、シンシア医師と7人の学生たちに
よって始められましたが、「シンシア先生のクリニック」として東南アジアばかりで
なく、世界の多くの人々に共感を呼んでいます。

昨年移設したという農村部の広々とした同クリニックを訪ねてみて驚きました。木造の
建物が多くあり、それぞれが内科、外科、小児科、産婦人科から歯科、眼科まで11の診
療科となっていたのです。イメージとは違って、病院のような総合診療所だったのです。
ここで、東京にある「NPO法人・メータオ・クリニック支援の会(JAM)」から派遣され
ている看護師の神谷友子さんから話を伺うことができました。ここには、日本からも
短期間、医師や看護師がやってきます。ボランティアの医師や看護師、スタッフも常駐
しますが、年間13万人の患者を診るのは、基本的にミャンマー人医師だといいます。
このクリニックを財政的に支えるスポンサーには、米国、英国、カナダ、日本などの
政府援助機関をはじめ、日本財団など世界各地のNGOが名前を連ねています。神谷さん
は今、ここの医療スタッフを対象に看護ケア研修を担当していて、移民として入って
きたスタッフが看護師の仕事ができるように、人材育成を行っているのです。

                         佐渡友 哲  

  7月

 多数決が決めてはいけないこと


人がたくさん集まれば、ひとりでいるよりも大きなことができます。人が多く集まれば
それは力になります。みんなで知恵を出し合えば、今は解決できない問題にもいつか
解決策が見つかるかもしれません。人数が多いということは数えきれない利点が あります。

多くの人が言っていることのほうがたった一人の言葉よりも、力を持つように見えます。
僕の教室でも学園祭の出し物はクラスの多数決で決まっていました。

けれど、世の中には多数決が決めてはいけないことがあります。

例えば、僕のクラスの誰かが「Aくん、坊主頭が似合うと思う。みんなもそう思うよね。」
と言ったとします。
クラスのみんなも「似合う、似合う」と盛り上がり、「Aくん が明日から坊主頭にした
ほうがいいと思う人は手をあげて」と、Aくん以外の全員が手を あげます。

このクラスの生徒が善意であれ、ここでの多数決そのものが間違っていると感じる人が
ほとんどだと思います。

「Aくんの髪型」は多数決で決めてはいけない「大切なもの」をその中に含んでいること
を僕たちは知っているからです。

人類は間違った多数決によって何度も痛い目をみてきました。

今の世の中を見ていると、僕たちは多数決で何かを決める前に、そこに多数決で決めては
いけない「大切なもの」が含まれていないかをゆっくり考える必要があるんじゃないかな
と、ぼんやりと思ってしまいました。          (内海)

  6月

     アトリエ・インカーブ

アトリエ・インカーブは、アートスタジオとして2002年に設立された18歳以上の知的に
障がいのある現代アーティストたちの創作活動の場です。

彼らの作品に初めて出会ったのは2014年でした。心が解放されて笑顔になる作品。緊張感
のある職人気質の集中力にエネルギーをいただく作品。抽象として意識にあるものの具象
化された作品。

彼らは、自らの障がいを主張したり、それを作品に込めたりしません。ここ数年、内外の
アートフェアにも出展を果たしています。多くの人びとが、彼らが作家として独立できる
よう支援しています。

どうぞ機会をとらえて作品を見てください。私の部屋に小さな作品があります。
力をもらっています。             Akiko.T

 5月

A School in Cambodia Part 2

三度目の訪問は2005年8月半ばの雨季の最中で、プノンペンに降り立つと国中が水に沈んでいるようでした。学校にたどり着けるかと考えていましたが、いつものようにソバンさんがバイクに私を乗せて水の中を連れて行ってくれました。 学校の建物はほぼ完成していて生徒の登録が始まっていました。200人以上の応募がありましたが、ソバンさんは120人に限定するよう言いました。(私は80人で一クラス20人がいいと思ったのですが)週に5日、1日に4か5クラスで午前5時に始めて、8時に終わることにしました。生徒たちは公立学校で他の科目を学んでいるので、英語だけを教えることにしました。 英語を学んでいれば、中学校から始まる英語のクラスにおいて他の生徒よりも有利なので、少なくとも彼らが高校までは公立学校にいるのを後押しすることになるだろうと感じていました。卒業後は旅行関係の仕事に就けるかもしれません。 さもなければ、彼らの将来は畑や増え続ける工場で働くことになり、どちらも貧困の連鎖から彼らを自由にできません。

My third visit was in mid August, 2005, in the middle of the rainy season. Flying in to land in Phnom Penh, the whole country seemed to be underwater, making me wonder how I was going to get to the school. However, Sovann picked me up on his motorbike as usual, and the roads were wet but passable. The school building was almost complete and we were starting to enroll students. More than 200 children had applied, but Sovann had to limit the number to 120. (I thought 80 students would be even better, keeping the classes at around 20 students each.) We decided on four to five classes a day, starting at 5 pm and ending at 8 pm, with students coming five days a week. Since all the students went to public school for other subjects, we would only teach English. I felt that learning English would encourage the students to stay in public school, at least through high school, give them an advantage over other students in their schools in English classes (which begin in junior high), and possibly help them get tourism related jobs after graduation. Otherwise, their future lay in working in the fields or the ever increasing factories, neither of which could free them from the existing cycle of poverty.

Sovann and I worked on English content, teaching methods, getting teaching materials and planning classes and the opening party in September. Unfortunately I wouldn’t be there for that or the first classes. However, we accomplished a lot, and I left with some degree of confidence that the school would soon be on its feet.

I returned the next March, and every year between January and March since then. Besides Sovann, we have had many local teachers teaching one or two classes every day. We have had a few women teachers, but mostly men, friends of Sovann. Teacher quality is often a problem. For example, poor pronunciation gets passed down from teacher to students, teaching by rote and repetition seems to be the Cambodian way, and light physical punishment is acceptable. Changing these habits is one of my many chores during my visits, but I have seen lots of improvement if I have been able to show a better way to teach and run the classes. Things are definitely more fun now, and we can see more progress in the classes.

Family-wise, Sovann quit the priesthood shortly after the school opened, got married, finished high school, and now has three children. His parents now have 13 grandchildren, and Sovann’s younger brother will soon graduate from university, the first in his family. This is very important in their village, as he can probably get a good job with a decent salary, the much needed cash inflow that can support the family, especially in times of trouble, such as severe illness or accidents.

Some of our first students are in university now. This is a huge step for them, as they have had to pay for cram schools, pass difficult entrance exams, and pay for tuition and living expenses, as most of them have had to move to Phnom Penh to study. Many of these former students have thanked me personally for letting them study English for free at our Butterfly School and encouraging them to stay in school. The name of the school comes from the small, flitting light that a butterfly adds to an otherwise dreary scene, in hopes that our school can add a ray of light and hope in otherwise desperate lives.

                            Heather W. 

 4月

A School in Cambodia Part 1

13年間、毎年カンボジアを訊ねています。最初の訪問 は、この国の最も貧しい子どもたちのためにフリー スクールを作る夢を実現したいためで、次の2度の訪問 は夢の実現を目にするためでした。その後の訪問は、 学校運営・子どもの教育・先生の訓練、そして地域の 一部になることを学ぶためでした。 どのように実現したの? なぜカンボジアなの? どこから夢は来たの? 48歳の夫が癌で死去した2000年、打ちのめされた私は 人生の目的について真剣に考えました。 こんなにも早く、簡単に人生が取り上げられてしまう のなら、家族の傍らにできれば私より貧しい人びとを 助けることで何かを残したいと思いました。 カンボジアへの最初の旅で、シエム・リープの郊外に ある大きな寺院で地域の子どもたちを無料で教えてい る僧侶に出会いました。多くの海外旅行者がアンコー ル・ワットからの帰途、そこに立ち寄り寄付をしてい ました。これらの詳細な記録と教えている彼の熱意か ら私は彼に惹きつけられました。まるで同じ台本を読 んでいるかのように、私たちは話していた全てに合意 したようです。

Every year for the past 13 years, I have visited Cambodia. My first visit was in order to try to fulfill a dream of setting up a free school for some of the poorest children in that country, and the next two visits were to see that dream come true. Subsequent yearly visits have been to help manage the school, teach the children, train the local teachers, and learn to become a part of the community.

How did this happen? Why Cambodia? And where did the dream come from?

In 2000, my 48 yr. old husband passed away from cancer, leaving me devastated and seriously wondering about the purpose of life. If it can be taken away so early and easily, I wanted to leave something behind besides my family, preferably by helping people worse off than me. Living in Japan put me relatively close to several very poor countries in need of aid, and since Cambodia was the poorest, I chose it to start my search. Also, the fact that it was a Buddhist country, and therefore should be relatively easy for a single woman to move about, and it was well known as the recipient of much NGO largesse unhindered by bureaucracy, made it an easy target.

On my first trip there, I met a monk who was teaching local kids for free at a large temple on the outskirts of Siem Reap. Many foreign tourists had stopped there on their way back from Anchor Wat, and his detailed records of their donations and his enthusiasm while teaching drew me to him. We seemed to agree with each other in everything we talked about, as if we were reading from the same script; a free school for kids, teaching English as most areas have some kind of public school for other subjects, away from Siem Reap as it is already the target of so many other helping organizations, etc. etc.
In the 30 minutes or so that we talked, I knew that here was a person I could trust, and could work with, or at least I was willing to take a gamble with him. We arranged to keep in touch by email, and make something happen.

The first step was buying some land, which Sovann (my partner, the monk) arranged to do. He bought some land from his parents, and the cash I sent over enabled them to move their house off the corner of their property which we had purchased, and also to build a small brick building housing a bath/shower and their first indoor toilet. No more bush toilets for the family!

The next step involved another visit by me to Cambodia, about eight months after our first encounter. The school was to be built on the family compound in a village called Popiae, situated one and a half hours north of Phnom Penh by motorbike. The purpose of this visit was to design and get a builder for the school building. I had imagined a straw hut like so many other local buildings, but Sovann told me they don’t last long, and a reinforced brick building was the best design for the climate. In the end we decided on one large classroom, and two smaller rooms for an office and bedroom for me or other visiting teachers. An architect cousin of Sovann’s drew up a professional plan, and we found a local builder who needed the job and could do it quickly and cheaply. Of course there were problems and glitches, which I won’t go into here, but the main thing is that the building did get built and was completed eight months later.
Another major part of that second visit was meeting Sovann’s wonderful family, seeing the town and meeting some of the local kids. It all invigorated me and assured me that I was doing the right thing.
                            Heather W.

 2月

   An extraordinary and unusual adventure at ADADA

Amnesty International`s mandate is to research, publicize, and campaign against human rights abuses around the world. My story is an “animal” story but I don`t want to suggest that it is Amnesty`s responsibility to be at the vanguard of the movement for animal rights too. Our own species is enough to put on one plate.I chose to post my story on this site because, at base, decency, justice, and compassion are decency, justice, and compassion, for all animals, human and otherwise, who live together on this lovely earth.

One day in May, my friend Koichi, pulled out his Japanese newspaper to show me an article about a donkey sanctuary in France. There was a small photo of a woman, Marinette Panabiere, 75, standing in a pasture with two donkeys, in the small town of Ambert, in the area of the Massif Central. By coincidence, I had been pondering the idea of walking with a donkey in this very part of France in response to a fantasy I`ve held since childhood . . . but I somehow couldn`t get sufficiently motivated. I had already walked across north Spain and this part of France, along the ancient pilgrimage route to Santiago de Compostela, but not with a donkey.

The article told the story of Madame Panabiere, who, with the close assistance of her husband, is the driving force behind this sanctuary, called ADADA, home to over 300 donkeys from all over France who had been tortured, maltreated, neglected and abandoned.

Donkeys, a usual presence in rural France all through the country`s history, have habitually been the victims of abuse not only as work animals (made to carry too much weight and to work too long and hard), but more recently, as pets. The appealing picture of a family in the past traveling on foot through the verdant countryside with their long-eared pal, inspired a donkey pet boom in more recent times. However many owners lost their enthusiasm along the way which resulted very quickly in staggering numbers of donkey casualties, not unlike what happens in the pet business everywhere, in which all varieties of animals, many from pet mills, are discarded in one cruel way or another by pet shops and pet owners. So, ADADA sanctuary was founded in 1968, and Marinette has been at the helm for the past 20 years, or so.

I went for a walk and many thoughts surged through my brain. I wondered if I could volunteer at ADADA, reasoning that it would be of mutual benefit; while helping out at the sanctuary I would learn something about taking care of donkeys, which would be useful preparation for my walking adventure with a donkey after that. I contacted Madame Panabiere and it was arranged that I would volunteer for a week or two. Koichi and another friend, Masao decided to join me for the first part of the trip.

The bus let us off in Ambert on a quiet evening in early August. The Panabieres live on the edge of town and their home acts as ADADA office and headquarters. When we arrived at 9 the next morning, there were several people in scraggly work clothes, smoking and chatting on the sidewalk. A friendly “bonjour” was exchanged and we learned that they were donkey caregivers at ADADA. Soon they all went inside for their brief morning meeting with Marinette while we explored outside.

There was an atmosphere of heartwarming chaos. We could see that the Panabiere home was haven also for animals besides donkeys. There were cats upstairs, and dogs downstairs, and a little fenced-in universe on the front lawn where three tortoises were going about their day. One poked it`s head out the doorway of its shelter, a miniature country cottage. The only donkey we could detect so far was brown fuzzy two-month old Garance, who has run of the meadow behind the house along with an odd assortment of other hard luck creatures. We later learned that Garance`s mother was too young to know how to take care of her, and it was now necessary to bottle-feed her every 2 hours, day and night, for another month or so, a task taken on by Monsieur Panabiere despite his very bad knees.

Eventually the caregivers came out and we were assigned to Hugo, chief on the ground. The three of us squashed into the back seat of his beat-up car piled high with distinctly donkey-related materials . . . tubes of creams and jars of ointments in brightly-colored plastic dishwashing bins, donkey brushes, leads and bridles, and alfalfa pellets and strands of dry hay all over the floor . . . and we raced off at near uncomfortable speed. The car swung through the narrow winding roads in the hills outside Ambert, and finally, after a couple of chore stops, we arrived at a pasture about 20 kilometers away. As soon as we got out of the car, Hugo lit a cigarette and chatted with Renaud, the young caregiver responsible for this pasture, and then took off in a rush to attend to some matter, promising to pick us up later. We would see on numerous occasions, that Hugo, who had a tossed off boisterous air,was indispensable, and everywhere all at the same time, dealing with this crisis and that annoyance, of which there were many.

Renaud didn`t seem quite sure of what he was supposed to do with us. He pulled out another cigarette and leaned against a post puffing away and then went to the pasture and gathered up two very cute donkeys, Blanco and Ophelie. He told us that we`d be taking them for a walk, which they loved, and we all crossed the country road to the start of a path in the woods. Renaud pointed to some pretty flowers with yellow petals at the edge of the path and warned us that they contained a toxin that accumulates in the body of donkeys over time and eventually kills them, so we were to be careful our donkeys didn`t eat any. This was a chilling start to our donkey education. He showed us how to hold the lead, and how to tie it in a special knot around a tree when we stopped for lunch. I petted Blanco under the chin, which was like soft suede, and gave both a piece of carrot. There is no music more pleasing than the muffled crunching sound of a happy donkey demolishing a succulent carrot, and no sight more captivating, especially in donkey profile; but their perfectly round bellies comes a close second.

I took hold of Blanco`s lead tentatively, Masao of Ophelie`s, and we started on our way along the narrow path as Renaud hurried back to the pasture to do his day`s work. Both donkeys, used to people, didn`t seem to mind our company and knew the right turns through these woods. After a pleasant hour or so of strolling, singing, and whispering in the donkeys` ears . . . this is irresistible . . . we stopped for an early lunch and tied up the donkeys where they could enjoy a snack of grasses and leaves but none of those nasty yellow flowers. The walk was a very fruitful hands-on introduction to the world of donkeys, and the most pleasant job I`ve ever had.

It was clear when we arrived at ADADA the next morning that the three of us presented a logistical problem. Koichi and Masao didn`t want to be separated from me, their lifeline in this foreign linguistic landscape, but it was impractical. The ADADA vehicles, mostly acquired by donation, are small and well beyond their prime, like Hugo`s. Besides having to haul the mess of things we saw in his car, it`s necessary in the case of some of the poorer pastures, to carry water tanks, and heavy bales of hay, so there was no room for three extra people.

Luckily, Nic, a friendly Dutch fellow, could take the three of us on this particular day, but we`d have to deal with this snag one day at a time. From the looks of things, there wasn`t an organized program for volunteers in place and we were a bit of an anomaly. What a drag to think that we might be a burden instead of a help.

Nic is responsible for six pastures. As we approached the first of them, we could see several donkeys at the wooden fence, waiting it seemed, to greet us. I broke off chunks of carrot for each of them and Nic passed out some donkey biscuits, which they gobbled up greedily. Once we were inside the gate, Nic lit up a cigarette and told us their names and a little about each one.

They were a mixed lot with different histories, but all of them had suffered. Two of them, Paulette and Lulu, were longhaired and seriously matted. Lulu, a victim of extreme neglect, had been reported to ADADA by a neighbor who, knowing the farmer well, suggested that ADADA devise some kind of polite story to buy her, and it worked. Nic explained that this kind of though there is no exchange of money for the donkeys that come to ADADA.

Moustache, the youngest and newest to arrive here, was chocolate brown with delicate white outlines around his intelligent eyes. He was still afraid and aloof and sometimes the others taunted him, but Nic said it would work out fine in the end, once he adjusted to his new home. Pieta, a very cute dusty grey donkey had some nasty wounds on her back. Nic attached her to a bar and began to apply some white ointment. Dada, Sabine, and Ben, were friendly and seemed very happy. They were used to the good life here, but had suffered in the past and had no other place to go.

An old shovel and rake for collecting dung leaned against a wall inside the very urine-stinky wooden shelter. Two of us started gathering up the day`s dung spread out all over the pasture in little piles, while the other brushed donkeys. I had the rake and it could only be pushed, not pulled, because the rake part kept slipping off the wooden handle. A wheelbarrow would have speeded things up, but Nic said they couldn`t afford one in each pasture. I asked if there was another rake but there wasn`t. He rolled his eyes in frustration, saying it would take five seconds to fix this one but it never got fixed and was just one of a million nagging annoyances. We had already experienced the wobbly gate that needed new hinges. Things were too disorganized, tools got lost, there are too few workers, and no extra time even for simple, very manageable tasks like these. ADADA clearly was over-extended and underfunded.

The most serious problem was that pastures were generally small and spread out all over the outskirts of Ambert, because ADADA couldn`t afford to buy or rent large pasture space closer to town, where more donkeys could live together, and management could be more centralized and rational. Fewer wheelbarrows would be needed, for example, and tools for repairs would all be in one place. It`s a vicious circle; outrageously expensive in gasoline, car maintenance, and travel time.

I didn`t mind shoveling dung. It isn`t offensive because it`s dry and firm, like grassy Minor League baseballs, and there is no bad smell. Not surprisingly though, I especially loved brushing the donkeys, who nuzzled up to me greedily vying for my full attention. They also loved to have the leathery insides of their long ears massaged. At times I thought I`d get crushed like sandwich filling between two competitors, so I sometimes had two brushes going at the same time. I remained cautious because I had noticed a donkey butting and back kicking at Renaud`s pasture, though it was directing its message at one of its peers. The pastures vary enormously in quality. The second pasture we visited on Nic`s circuit was a long and narrow barren piece of land with no shade and no natural water. It was on a slant, and the donkeys came to the bottom to drink from a trough and eat from bales of hay, and then trudged up again to the small hut at the top for protection from the sun. We didn`t have to shovel dung there because it rolled down to the bottom on its own. The final pasture of the day, on the other hand, was donkey heaven; lush and shady, with a stream of cool clear water trickling through and lots of natural vegetation to eat. It had been donated to ADADA by the next door neighbor who loved animals.

By late afternoon, our first real work day at ADADA came to an end, and though our work had not been difficult, we were very tired, and looked forward to supper in town. The rest of our stay at the sanctuary would follow a similar pattern of brushing and shoveling, and since it was clear that no fancy language skills were required, we agreed that from now on Koichi and Masao could be without me, thus solving one problem.

The regular workers, however, have much more complex work to do, mainly concerning the donkeys with special needs under their care . For example, Poppy arrived with one gangrenous leg that had to be amputated at mid-calf, and her caregiver had learned to deal with her prosthesis. Other donkeys with chronic medical conditions require ongoing management, and some have special dietary needs. Happily, most despite their histories of abuse, recover completely.

One day, Gilles, the farrier was coming and I was excused from my dung slinging duties so that I could watch him trim donkey hooves. He even let me trim one of Babette`s front hooves. I was afraid I`d cause mortal damage, but Gilles guided me carefully and I managed the task. It took muscle to dig the giant shears through what felt like pressure-packed leathery cork, and I would not have had the strength for more than one hoof. Katastroff was last in line that day. He`s the most defiant of all the donkeys at the sanctuary and also very strong, but since all 300 plus must be “manicured” regularly, the challenge of Katastroff had to be met. Four experienced caregivers, ready for the inevitable drama, took their usual positions but Katastroff managed to dash off two times before they finally cornered him. He kicked and tried to bite, but Pierre took hold of his ears and twisted them, not violently or painfully, but firmly, which calmed him down. I learned that twisting their ears releases a substance in the brain that has the same effect as endorphins.

And then there are the unpredictable moments; accidents, sudden illnesses, and as we were about to discover, even crime. One morning as we were arriving for work, we could see everyone talking in hushed tones in front of the house. Marinette soon headed inside visibly upset. A young female donkey, Penelope, had been shot and killed in the night while resting in her pasture with the other donkeys, and nobody had a clue as to the killer or the motive. The weapon was military-caliber and the bullet, huge. The story made the front page of the local newspaper. By the time I left Ambert, the mystery was still unsolved.

But life is up and down. The ultimate goal at ADADA is to place donkeys in good permanent homes. It is very important that there be other animals around as companions for the donkeys because they are very social and go mad if they are alone. One day, several caregivers were bustling around Vodka, a young lively donkey, and there was a sense of celebration in the air. They were getting him ready to leave for his adoptive home and someone was adjusting a new bridle for him. Although everyone was sad Vodka was leaving, they knew a good life awaited him. He was definitely one of the lucky ones in that respect.

The future of ADADA is unclear, but no doubt it will continue somewhat on its present path. It must, as there is a great need, but who will take over when the Panabieres are no longer able to manage such a massive undertaking? It is a difficult problem because running the sanctuary involves enormous dedication, work and energy, with very little material return. More secure and stable funding would alleviate many of its problems and relieve it of its heavy dependence on volunteers and donations, but will more funding come? I truly hope so.

The time I spent at ADADA was invaluable preparation for the events that followed. My fantasy of walking with a donkey in the Massif Central actualized as two unforgettable walks, first with Bubulle, and then Rangoon, the sweetest companions one could ever imagine. The combination of volunteering and then walking came about serendipitously but turned out to be the perfect summer plan. The story of this second chapter is for another time. Quickly though, I want to recommend this kind of adventure to anyone who loves animals, yearns for the slow life, and enjoys walking where nature is allowed to breathe and flourish, where humans take a relatively benign stance within it instead of lording above it.
                                  Ciara B.

Visit ADADA online (French) at
http://www.assoadada.fr/visite-ambert-du-donkey-sanctuary/



 1月     「2017年の初めに」

新年明けましておめでとうございます。

今年も我が家は地元の神社に初詣に行きました。神主さんもいない小さな神社です。 それでも昔は地元の有志の方に護られ、お正月には賑わいを見せていました。

いつの頃か時代とともに衰退しひっそりとしていましたが、最近はお札も賽銭箱の 横に置かれようになり、また復活の兆しが感じられます。

今年は氏神様のお神札とともに、なんと天照皇太神宮のお神札も置いてあり、 一緒に頂いてきました。神棚があるわけではないので、とにかく一番高いところ に祀りましたが。。。
はて、これって「日本会議」を支えている神社本庁が、“伝統的家族の姿”を取り 戻す運動の一環ではないのかと、ふと心をよぎりました。

今年はあらゆる不安材料が渦巻いています。
トランプ新大統領が誕生すると、どうなるのでしょう。彼がツウィートするだけで 株価に影響が出るなんて異常。ヨーロッパに押し寄せる難民の問題。地球温暖化の 問題などなど、考えるだけでもため息が出ます。

でも、東京の豊川稲荷でひいたおみくじは大吉!!
一人ほくそ笑んでおります。

どうぞ平和な一年となりますように。   K.K.



2016年のエッセイ  12月     「12月に想うこと」

もう12月、やっと12月です。師走の語源を見たところ説が色々ありました。
その中で、お師匠様である僧侶が12月は忙しくて馳せ参じるから、というのが気に入りました。

鎌倉のお坊様たちも走っているのでしょうか。

さて、アメリカに続いてイタリアの国民投票。そしてオーストリアの大統領選挙の決選投票の行く 末が心配されていました。特に多くの難民がやっと辿り着いたオーストリアで、極右の元首が
選ばれる可能性もあったそうですから、難民受入れに寛容な党が勝利したと聞いて、ほっと、
胸をなでおろしたひとも多かったことでしょう。

これから氷点下にもなるヨーロッパ、激戦地のシリアにいる難民の人たち。
そして日本でも路上で寝ている人が気遣われます。    N.N.

 11月     「この秋に思うこと」

  10月16日、神奈川交流会の「日本国憲法における人権」に参加して来ました。
  参加者の皆さんの知識力や熱い思いには、とても>驚かされました。憲法について勉強不足であることを今更のように自覚し、 恥じ入っていたところ、ちょうどその後に、分かりやすい憲法の本が薦められていたので、早速注文しました。

  がんばって勉強します!!

  11月は、12日に映画「異国に生きる」の上映会、13日は鎌倉大仏フェスタでバザーを出店
します。鎌倉グループに入ったお陰で、色々なイベントに参加でき、そこでまた新たな出会い
が待っています。
  寒さに負けず、人の温かさで繋がる11月になりますよう、願っています。   石井


 10月     「人権の普遍性」

  今月16日に開催されたアムネスティ神奈川交流会では、「日本国憲法における人権」について、 「明日の自由を守る若手弁護士の会」の武井弁護士をお招きして講演とその後の質疑応答、ワークショップショップ を通して、「自民党憲法草案」において人権がどのように現行憲法とは異なる解釈になっているか、後退しているかを考え、今後 私たちに何ができるのか等を話し合いました。

 草案の前文では、アムネスティが活動の基本とする「人権の普遍性」が削除され、「人権の普遍性」を日本の 「歴史、文化、伝統」に基づいた独特の人権システムに置き換えています。
代わって、日本国の歴史と独特の文化を強調し、人びとに国へのプライドと国を守る意思を押し付けていているところは、 「教育勅語」に通ずるものと懸念されます。         H.I.



「北朝鮮強制収容所に生まれて」上映とトーク

6月7日(土)早朝、台風接近による雨の中、ジャック&ベティ前の人の列を見て関係者一同が胸を撫でおろした。 準備・広報期間が一週間しかなかったのに加えて、一般にはなじみの薄い地味な映画だ。 ところが開場後すぐに用意した100部の資料は無くなってしまい、後の入場者には関係者の手持ち分を渡すことになった。

映画は淡々と、時には間をおいてポツポツと体験を語るシン・ドンヒョクさんの話が中心だ。 彼の無表情が、着用している真っ赤なTシャツとモノトーン・アニメーション映像との相乗効果を高めて、 収容所の真実を伝えてくる。

トークは、脱北者Sさんと北朝鮮難民救援基金の佐伯さん、司会のアムネスティで進行した。

脱北者に対して日本で一方的に作られている暗いイメージがある。しかし登壇したSさんは日本で前向きに希望を 持って生きている若い女性で、その明るい表情と、いつか故国北朝鮮へ帰って農業をしたいというドンヒョクさん の熱い想いは、観客にはうれしい驚きだったようだ。

 朝日新聞はじめ地元の神奈川新聞等が記事にしてくれたことも功を奏したのか、 5日間の上映期間で500名を超す観客動員があったとの知らせが劇場側から送られてきた。 北朝鮮の人びとに一日も早く「自由」が訪れることを望むのみだ。
                             2013/12/9 (H.I)


茶色の朝

第一次安倍内閣による「教育基本法改悪」時には、あれだけ 大規模なデモが行われたにもかかわらず、新聞は一行も 書かず、テレビも一言もそれに触れなかった。

そして今回、メディアは一斉に「特定秘密保護法案」に対する 懸念を表明し、連日、関連記事が紙面を占め、映像がテレビを 賑わした。自分たちの首に綱が掛けられてきたからか?

しかし、突如の強行採決。
「茶色の朝」の文字が頭をよぎった翌日の夕刊に 「民主主義の基盤揺らぐーイタリアの社会派監督が警鐘」 の記事を見つけた。
「イタリアでそんな法律ができたら、見直しの国民投票 に向けた市民の動きが翌日から始まるだろう」
安倍の次の手を封じるためにも、今、私たちに今、即行動が求められている。
                             2013/12/9 (H.I)


自治体の補助金打ち切り連鎖


食糧不足にあえぐ国民の窮状をも全く意に介さず、核開発に進む朝鮮 民主主義人民共和国(北朝鮮)に世界中が懸念を示している。
そんな中、神奈川県までもが、高校の無償化対象から朝鮮学校を 除外し、全国の自治体でもその流が止まらないが、以下の東京新聞 の記事にある神奈川大法科大学院、阿部浩己さんの話は、その矛盾を 実にはっきりと指摘している。
国際派、人権派を自認する神奈川県知事にも読んでもらいたい記事だ。

「特に神奈川県では学校の存続が危ぶまれ、学ぶ権利を奪いかねない。
神奈川大法科大学院の阿部教授は『首長の仕事は日本国籍を持たない
人も含め住民の生活を守ること。その任務をはき違えている。』
『補助金を打ち切ることで核開発や拉致問題が解決することはありえない。
外交や政治が解決できないツケを、一番立場の弱い在日の子どもに回して
いるだけだ』」

2013年2月21日、東京新聞より抜粋
                        2013/2/22 ( H.I.)


2013年 新年例会

  美味しそうなご馳走にメンバーが増えることを期待して♪♪
  2013年もどうぞよろしく 乾杯!

  食べているだけではありません。
  2013年も、毎月の例会で、こんなにたくさんの手紙が世界中に送られます。

  ほっこりと暖かな切り炬燵は、
  みんなの心まで温かくしてくれます。

  戸外に湘南の海風が吹いていても・・
  



巳年に寄せて


なんとなく、ひとつくらいは正月らしいことをしてみたくなるものです。そうそう、新聞で「銭洗弁天」のことが出ていたっけ。 よし、早速出かけてみよう!と、久しぶりに銭洗弁天へ足を運んでみました。「銭洗弁天」の正式名称は「鎌倉銭洗弁財天宇賀福神社」 なんと巳年巳月巳日、源頼朝の夢枕に宇賀神が現れ、霊水のありかを教えたとの事がこの社の事始だそうです。宇賀神は人頭蛇身で 農業の神様として日本で信仰されたといわれている神様で、 弁財天はそもそもはインドのヒンドゥー教のサラスバティー(河の神様)で仏教の守護神となって日本に伝来したものだそうです。 弁才天→弁財天となって、 お金にもご利益のある神様と想像が膨らむところがご都合主義でまた面白いですね。
お正月くらいは前途明るく、縁起のいい気分でいたいものなのでちょっと出かけてみました。
アムネスティも脱皮して再生する蛇にあやかり新しいステージに立ち、また、財政的にも運が向いてくるといいのですが!!
(小銭を洗ってくるのを省略してきてしまったのでダメかな?)
2013/1/23 (たか)



「アジア的人権」?


ASEAN(東南アジア諸国連合)が採択しようとしている「人権宣言」が著しく「世界人権宣言」の人権基準を逸脱しているので、その採択に待ったをかける声が、アムネスティ・インターナショナルをはじめとする国際的な人権団体からあがっているという。

このニュースを読んで脳裏に浮かんだのが、1991年横浜開催のアムネスティ「世界大会」における基調講演で、マレーシアの元「良心の囚人」チャンドラ・ムザファーさんが語った言葉だ。アムネスティの活動で釈放された彼が、「アジアにはアジアの文化や経済発展レベルに合わせた『アジア的人権』があって然るべきだ」と言って、多くの参加者から失望の声があがった。

あれから20年。東南アジアの経済成長はめざましく、それに伴って一般市民の生活、教育レベル、女性の地位も向上してきているはずなのに。
また「アジア的人権論」も影をひそめてきていたのに。

「とくに懸念されているのは、同宣言の一般原則だ。
現草稿の一般原則第6、7および8条によると、人権は『義務の履行に見合って』、また『国家および地域の状況』や『異なる文化・地域・歴史的な背景』に応じて与えられるとされている。」 「また、同草稿で宣言されたすべての権利が、『国家安全保障』や『公衆道徳』といった、広範囲にわたる理由で制限される可能性がある。」 (アムネスティ・インターナショナル発表 国際ニュースから抜粋)

「『人権、人権』といっているから『義務』が疎かにされるのだ。日本には『先祖や両親を敬う』といった日本独自の日本的価値観がある」
なんておかしなことを言ったり、「非嫡出児の権利を認めると日本の家族制度が崩壊する」と言ってはばからない政治家がいる。
先祖や両親を敬う文化は万国共通のはずだし、非嫡出児の権利を認めないのは、憲法に違反する明らかな差別行為のはずだ。
日本がASEANの構成国でなかったは幸いだったが、これに勢いを借りて、政治家が「日本的人権論」を振り回すようにならないでほしい。   
2012/11/15 (H.I)



「石田泰尚&山本裕康コンサートinよこはま〜魂の自由を求めて〜」

「世界中で人権侵害に苦しむ方々の生活を変えようと尽力されているアムネスティの皆さまの活動は素晴らしいと思います。 今回、そのような皆さまに演奏の機会を頂き大変感謝しております。本日の演奏が少しでもアムネスティの活動の支えになれば嬉しいです。」
今年、2012年6月のコンサート・パンフレットに演奏者の石田さんが寄せて下さったメッセージです。

アムネスティ・インターナショナルが設立されて半世紀が過ぎて初めの年の神奈川コンサートです。 アムネスティ・インターナショナルの活動が始まってから50年を過ぎても、アフリカ・中東・アジアなど 世界各地で人びとが「自由」のために戦っている今年、コンサートは再び「自由」をテーマとしました。
1月、コンサート・テーマが「魂の自由を求めて」に決まると、このテーマに賛同して下さった、 今最も注目されていて今後を期待されているバイオリニストの石田泰尚さんとチェロの山本裕康さんの 出演が決定しました。
お二人には、2001年のアムネスティ・インターナショナル設立40周年記念チャリティコンサート 「自由をみんなに」にもご出演頂いています。

6月23日、440席が埋め尽くされた横浜みなとみらい小ホールは、前半、バイオリンとチェロによるモーツアルト とラヴェルのデュオで熱く湧き、インターバル前の石田、山本さんとアムネスティ日本顧問、イーデス・ハンソンさんとの ショートトークでハンソンさんが二人から引き出されたエピソードで温かい笑いに包まれ、後半、ピアニストの諸田由里子さん が加わったベートーヴェンのトリオで再び熱く燃え、アンコールの「トロイメライ」でようやく静寂を取り戻して、夜の帳に包まれ、 満足顔で家路につく人びとを見送りました。

11年ぶりに新調された透明の3個の大きなカンパ箱は、アムネスティのロゴマーク、ろうそくのシールが貼られ、今年もハンソンさん や若林事務局長たちに抱えられて、会場の内外を廻り、皆さんからカンパを頂きました。
今年はアムネスティ・コンサートへ初参加された方が多かったようで、ショートトークで、ハンソンさんからアムネスティの活動紹介があり、 中国の人権活動家、陳さんの家族のための手紙書きへの参加が呼びかけられましたが、カンパ箱への手の伸びはいつもより少なかったかもしれません。 しかし、アンケートには、「アムネスティのことをもっと知りたい」「情報が欲しい」との回答が寄せられ、翌日、初参加の方から入会お申し出のうれしい電話がありました。

日本では、まだまだアムネスティの知名度が低いのをコンサート活動の日々に感じます。コンサートを通して、アムネスティ活動を少しでも広げられたらいいですね。
2012/7/19 (H.I)



私の心に残る言葉3つ

「井の中の蛙になるんじゃないよ。これからの女の人は広い世の中を見聞きしなくちゃいけないよ。」
これは、小学校6年生の時亡くなった祖母からの言葉。 隣地に住んでいた祖母の家には昔ながらの井戸があり、夏になると、家の周囲からウヮンウヮンと鳴り響く 蛙の鳴き声・・・・。農家の嫁として生きた祖母こそ井戸の中に閉じ込められた蛙のように、家から歩ける範囲での世界、とても狭い世界で生きてきた。寡黙な人だったが、彼女の思いが孫の私の中に生きている。

「あなた方は思想を持った人間になってください。」
高校生のとき、他校に赴任される生物の先生が、最後に生徒たちに語った言葉。 私は、思想って思想家が持っているものだと思っていたので、単純にびっくりした。そんな程度の高校生だった。でも、驚いたおかげで、心に刻み込まれることになった。

「皆さんは、発信する人になってください。」
大学の恩師が、卒業後、年月を経て語った言葉の一つ。そうか・・・もう、吸収しているばかりではいけないのだな。発信していかないといけないんだな・・・。 彼から何を学んだかと問われるとあやふやになってしまういい加減な学生だったが、彼の生きる姿勢そのものが憧れだった。怠慢な私が重たい腰を上げてHPを作る原動力にもなった言葉。
2012/5/27 (たか)



映画館のご案内 京浜急行線(黄金町駅)より徒歩5分「ジャックアンドベティ」
5年前に閉館の危機がありましたが、支配人と熱狂的ファンにより閉館は回避され、上映を続けています。
映画は幅広い選択で、美空ひばり、三人娘やワイルドなアクション映画から、3.11と原発を考える「カリーナの林檎」、「プリピチャ」(チェルノイブリから4キロの町)、現代日本映画、フランス映画、韓国映画、イラン映画、アニメーション、ドキュメンタリーと多種多様なプログラムです。

今、お勧めは私が見た「サラの鍵」です。
2010年、フランス映画で東京国際映画祭最優秀監督賞と観客賞をダブル受賞しました。 1942年、パリでユダヤ人が迫害され、アウシュビッツ収容所に送られた事件に基づきます。 原作は全世界で300万部突破のベストセラーです。
ストーリーはユダヤ人一家の長女サラが検挙された朝、弟を納戸に入れ、鍵をかけたことから始まります。 また、もう一つ2010年現代の話、パリに住むアメリカ人女性記者ジュリア45歳のスト−リーと交差します。
ジュリアは子供がいますが、第2子を望んでいますが、妊娠してみると夫の猛烈な反対にあいます。
人生の岐路に立ったジュリアはやがて、サラの行方、真実を探そうと決めます。
サラの足跡をたどると、サラの秘密が、次々と明かされます。

単なるお話では済まされないユダヤ人虐殺、それによる個人の悲劇、私たちも、この事実を知らなければなりません。 他の人に伝える事も大切な使命です。
そして、サラの悲しみを見つめ、自分の未来も変えたジュリアにあなたも共感するでしょう。

ジュリアも輝いていました。
このサブタイトルは〜新たな人生を歩きだそうとする全ての人へ〜。
そうです。私たち全ての未来の輝く人生のために!!!
2012/5/7 (The blue frog)



日本の死刑執行に対する海外の反応
3月29日、日本で約2年ぶりの死刑執行の報が伝わったその翌日、
次のメイルが、 アムネスティのある海外支部の女性スタッフからメイリングリストを通して届いた。

"I don't know about you folks, but people I've spoken to in passing here aren't even aware that Japan has the death penalty, even worse how they carry it out!"
「あなたたち支部の人たちはどうか知らないけれど、事務所で通りかかるひとに話したら、日本に死刑制度があることにさえ気づいていないの。
もっとひどいことに、執行があるなんて!」

世界の3分の2以上の国が法律上または事実上死刑を廃止し、
アジア・太平洋地域では41ヵ国中、フィリピンなどが既に死刑を廃止し、
最近モンゴルも「死刑廃止条約」に加入して、13ヵ国だけが死刑制度を維持している。

「死を持って償う」という文化(?)が依然として存在し、仇討ものにも人気がある日本で、 「人権」について話していて賛同を得られても、こと死刑に話が及ぶと途端に、 相手側が無口になったり反応が無くなったりでこちらも話が続け難く 、日本で死刑廃止にコンセンサスを得る難しさを感じてしまう。
こんなときいつもひっぱり出してきては繰り返し読んでいる一文に、 2008年11月28日の「東京新聞」夕刊、「放射線」に載った作家、星野智幸さんの「死をうながす死刑」がある。


 死刑を必要悪だと考えていた筆者であるが、
 「抑止であったはずの刑罰(死刑)が今は、正反対の効果を及ぼしているよう
 にしか見えない」
 「『余計な人間の命は奪ってもよい。生きているに値しない人間は、死んでも
 良い』とでも言うような、 人を死や殺人へと駆り立てるグロテスクなメッセー
 ジに変わったと感じる」
 「大人が次々と自ら命を絶っていく環境は、『自殺は普通のことだ』というメ
 ッセージとなり、死へのハードルを低くする。同様に、死刑判決が乱発され、
 次々と執行される世では、他人の命を奪うことへのハードルが低くなる。死へ
 駆り立てられる社会では、『死ぬこと』も『殺すこと』も、同じ行為になって
 しまう。」
 「死刑が目立つ社会は、紛争下にある 社会とあまり変わらない」
 と言っている。


「死刑」ニュースは、私に子ども時代を思い起こさせる。
死の恐怖に怯えていた空襲から解放され、童謡もクラシック音楽も昼間から自由に聴けるようになった頃、 私を襲った最初の恐怖は「東京裁判」での死刑判決とそれに続く「絞首刑」のニュースだった。
訳も分からない小学生だった頃から、以来「絞首刑」ということばは、私のトラウマとなってしまっている。
今もニュースでこのことばが聞こえてくると真っ先にテレビを消してしまう。

シリアの子どもたちの恐怖の表情が、私の時代の日本の子どもたちの顔とオーバーラップする。
私の世代の人たちにとって、あれは既に過去だけのものになってしまったのだろうか。
戦争のない日本で、しかし連日殺人やまた「死刑」のニュースを目に、耳にする子どもたちは今どう感じて、どう育っていくのだろうか。

「えっ、日本に『死刑』なんてあったの?知らなかった」と子どもたちが言える国に早くなって欲しい。
2012/3/31 (H.I)



映画『風の馬』のお知らせ
映画のお知らせです。
数年前に かながわグループで上映したものです。
この作品は1998年に、チベットのラサやネパールで監視の目をかいくぐり撮影された劇映画です。 チベットは、報道規制により、外国からのカメラが入ることは許されません。 本作は、実話をもとにチベット問題を真正面から捉えた衝撃作として、世界各地で上映され芸術的な賞賛と政治的な論争を 呼びました。ここに描かれていることは、今も変わらないチベットの現実です。
とき:3月27日(火)14:00〜15:40
ところ:逗子文化プラザ1階さざなみホールにて。
入場無料 当日先着100名 主催は逗子市立図書館です。
2012/3/23(たか)



卒業式
子どもの卒業式は、どきどきする。
みんなが立ち上がっているときに、ひとり 座るつもりでいるから、小さな覚悟がいる。たったそれだけのことなのに、どきどきする。
子どもが3人。小学校から高校まで、入学式と卒業式あわせて約15回のほんの小さな覚悟のひと時。
保護者としての行動だから、別に誰から非難されることも、実害もない。
それでも、なんといっても居心地が悪い。どぎまぎする自分にも、情けないと腹が立つ。
まあ、それでも座れるだけでよしとしよう。
あと1回、腰を下ろすチャンスがある。
2012/3/10 (たか)

    


今、もっともお薦めしたい2冊   その1
ステファン・エセル著 村井章子訳 「怒れ!憤れ!」  日経BP  

著者は1917年ベルリン生まれ。
第2次大戦中ドゴール将軍の下で働き、44年にゲシュタポに逮捕され危うく絞首刑になるところを切り抜け、戦後「世界人権宣言」の起草に関わる。
90歳を超えた今も、不正に対する「怒り」の心は衰えることなく、ガザのパレスチナ人救済に尽力。
若者に「憤れ」、怒りが前進する力になり歴史を動かすと呼びかける。この冊子による彼の檄文がヨーロッパの若者を行動に突き動かしたと言う。
戦後民主主義を棚ボタ的に手にし、自ら「自由」や「人権」の意味を考えたことのほとんどなかった日本人の私たちには理解しにくい「自由」、「人権」の意味が、この薄い冊子で、ストーンと胸に落ちる。
2012/2/16 (H.I.)




今、もっともお薦めしたい2冊   その2
小熊英二 時評集 「私たちはいまどこにいるのか」 毎日新聞社   

昨年3.11の直前に買ったこの本は、気になりながらもそのままになっていた。
ところが最近病院に通う羽目になり、待ち時間に読み始めたら、もう止まらない。
本のそこここに、いま私が向き合おうとしている問題の裏付けとなるヒントがあるのだ。
3.11以降ますます自信を喪失し、日本、自らの将来にも不安を感じている私たち日本人に、本書は戦後から最近までのさまざまな事例や逸話を紹介し、問題を分析している。
また米国やフランスにおける国家と個人の関係と明治以降の日本と日本人の関係を比較対照しながらの言及は、現在日本が直面している諸問題を私たちが自らで考える鍵を提供してくれるはずだ。

2012/2/16 (H.I.)




お薦め2冊を読んで   
2冊を読んで思う。
今、日本の若者の「怒り」は権力、未来に立ち向かう方向ではなく、弱者、あるいは自らの内に向かって完結してしまっているのではないかと。
1月のアムネスティ鎌倉の例会で、2人のカナダ出身のメンバーが「日本は『人権』について教えていない」と同時に口にした。
カナダでは、小学校入学と同時に「人権」について、「子どもは親から愛される権利があること」「人からいじめられない権利があること(だからいじめてもいけない)」等などを学ぶという。
翻って日本はどうだろうか。
諸外国から大きく遅れて1994年、国連加盟国のうち158番目に「子どもの権利条約」を批准したが、当時の文部省は「子どもの権利条約」を批准しても基本的にはこれまでのやり方を変える必要はないという主旨の伝達を各都道府県教育委員会などに送っている。

日本人が不正に怒り、未来に向けて自ら活動を起こすようになるには、まだ時間がかかりそうだ。
2012/2/16 (H.I.)



HPはじめました!
3月初旬の最終講座までにアップが間に合うかどうかが懸念されて いたアムネスティ鎌倉グループのホームページですが、 細かい点の修正はまだまだ要るものの、 なんとか一応の体裁を整えて2月開設にこぎつけられました。

人頼みにしていても始まらないと、 ホームページ講座に申し込んだのが昨年2011年の夏。 偶然にも他のNGOからの申し込みがなく、アムネスティのメンバー3名 だけで講師の先生を独占して教えて頂けるという幸運に恵まれ、 PCの基礎からHTML、テーブルを前期10回の講習でクリア―(???)し、 プリミティヴながらホームページの体裁ができあがりました。 後期8回の実践編の今、手探りでホームページを作っています。

今後、鎌倉グループ・メンバー全員の声、ノウハウをホームページ づくりに生かし、グループ色のあるホームページがつくれれば、 そして多くの人にページを訪ねて頂けたらうれしいです。
 
2012/2/3 (H.I.)







 
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